(第414号)勘兵衛が見た山中城(3)(令和4年12月1日号)

※「歴史の小箱」第412号「勘兵衛が見た山中城(二)」の続きで、出丸「あげしほり」で約2時間狙ねらい撃ちされていた後の記述になります。

 兵の人数と物量(ぶつりょう)に勝る豊臣勢に対して、わずか数千人の守備兵で出丸(勘兵衛記述)をはじ め数多くの曲輪(くるわ:本丸など)に兵を配置すると、北条方はそれぞれ数百人単位の兵とわずかな鉄砲の割り振りで戦(いくさ)を余儀(よぎ)なくされたようです。出丸では約2時間集中砲火(しゅうちゅうほうか)を繰り返しましたが、火薬と鉄砲玉は残りわずかとなりました。勘兵衛はこの時のことを次のように記しています。「搦手(からめて)・寄手(よりて)少々入り廻り候(いりまわりそうろう)時分に、両丸(りょうまる)に相ひ見(あいみ)申し候(そうろう)さまの煙(けむり)薄く成り候(うすくなりそうろう)。」と裏口や侵入口を攻め立ててからしばらくすると鉄砲の煙が薄くなり、鉄砲が使えなくなったと判断して侵入を再開します。
勘兵衛記述範囲
▲勘兵衛記述範囲
歴史の小箱勘兵衛03話(出丸~二の丸鳥瞰図)
▲三の丸・二の丸鳥瞰図
 「あげしほり」を越えて二十間(36m)進むと三の丸二階門があり、土橋(どばし)を渡って扉の脇を押し破り進入します。中を見ると二の丸に引き返す兵と、先にはまた二階門が見え、そこに至る長さ十間(18m)の欄干橋(らんかんばし)がありました。そこを敵兵の撤退とともに二の丸になだれ込みました。中に群れだった鎧武者(よろいむしゃ)を見ましたが、先に突き進みました。

 さて、勘兵衛の文章の良いところは、大きく進んだ距離感を「町(ちょう)」の単位(109m)で表現し、細かく説明したいところは「間(けん)」の単位(1.8m)で数値化し、防御施設(ぼうぎょしせつ)はあったも のを形状とともに正確に記述します。さらに素晴らしいことに、進行方向(構:かまえ)を「北」と設定し方角を当時の方位呼称でしっかりと記録しております。この記述の正確さは、陥落(かんらく)後に歩測(ほそく)で測り直したものでしょうか、あまりにも正確です。

 勘兵衛の文章の悪いところは、功績をアピールするため、山中城を「たったひとり」で攻め落としたような、鼻につく自慢話になっていることくらいでしょうか。

※本文章は正式報告『山中城跡』とは異なり、報告後の発掘調査で得られた事実と『渡辺勘兵衛武功覚書(わたなべかんべえぶこうおぼえがき)』に基づいて再構成しているため、あくまでも一つの説にとどまります。現地の説明版や曲輪配置は正式報告どおりです。

【広報みしま 令和4年度12月1日号掲載】